12の巻~『聲の形』
タイトルを見て
「え、漫画?」
と思った方、正解です。今回は漫画のお話です。
最終巻が2014年12月なのでネタとしての鮮度はかなり落ちてますが、先日漫画喫茶で全巻読破しました。
そして次の日にもう一回最初から最後まで読みました。
話題作ということもあり、思うところがあったので、今回はこれについて少し記載したいと思います。まとまっていないので、だらだらとした記載になりますが、ご勘弁を。
このブログで特に丁寧にあらすじを記載するつもりはないので、
気になる方はWikipediaでもどうぞ。
◆本作のいじめに見る解決の難しさ
読んだ方はご存知だと思うが、この漫画の一巻は主人公の将也が聴覚障碍者である硝子をいじめる様と逆に将也が周囲から孤立していじめられる様に終始します。
見ていて気分のよいものでないので、飛ばして読んだ人も多いと思うのだけど、このパートの描写はすごい丁寧かつリアルです。
いじめという手段に共感する人はいないと思いますが、残念ながらそのいじめが発生する過程については、自己の体験とも照らし合わせて、違和感なく読んでしまった人も多いのではないでしょうか。
この漫画のいじめの発生要因としては以下の三つがあげられます。
1、主人公将也は好奇心が強く行動力のある六年生であること
2、硝子は聴覚障碍をもつがゆえに、周囲の人に頼らざるを得ない。そしてそれを面倒だと思う周りの児童
3、硝子とうまく付き合っていくことの大切さ・必要性を積極的に説明しようとしない、もしくはする能力を持ちえない先生たち
1の将也はクラスの中に、そんな奴いたなと思わせる、いかにもな感じのキャラです。硝子が学校に来る前は他人をいじめている様子もない。一巻の最初では普通の小学生です。
しかし硝子が学校にきて、クラスの他の子が硝子を疎ましく感じるようになると、硝子を排除することが正しいことなのだと勘違いしてしまいます。
本当は周囲の大人が正しく指導してその考えを改めさせなければいけないのですが、先生のやる気のなさと指導力不足のせいで伝わってません。
ここでのポイントは、クラスの他の子が硝子を疎ましく思う原因は単なる根拠のない差別からではないという描かれ方がされていることです。
硝子が原因で合唱コンクールに落ちたと思われる場面(実際は定かではないですが)や耳の聞こえない硝子を助けている最中に授業に遅れてしまうといった場面の描写があります。
つまり彼らの中では、いちおう感情論を超えた実害が生じている(ことになっている)わけですね。
いじめという手段は肯定されるものではないが、残念ながらクラスの中では硝子を排除することが正当化されてしまっている。
そう、このいじめは、単なる感情だけの問題じゃない。
自分に迷惑をかけるものを唯々排除するという子供ゆえの純粋な動機(将也の場合はそれに好奇心が加わったことで他の子よりもエスカレートすることになりますが)が原動力になっている。
これは小学校のいじめの描写として非常にリアルです。
しかし同時に小学校で起こるいじめ問題の厄介な側面をあぶりだしていると感じるのです。
いじめや差別にはいろいろな種類があります。
例えば、ハンセン病や部落差別、これらの差別には、正しい知識の共有・啓蒙がとても有効です。ハンセン病が差別されていたのはそれが感染すると思われていたからであり、部落差別に至っては感情に基づく血縁差別で、両方とも差別する側に実態的に害なすものではありません。
なので正しい知識さえ共有されれば差別は解消されるはずです。(現実問題どうかはおいておきます)
一方でこの漫画のいじめ・差別の解決は非常に難しい。
それは正しい知識で硝子のことを理解したとしても、そのさらに先に「では硝子を支援するのか、支えていくのか」という負担の問題があるから。
ハンデのある人をどう支えていくかという問題は、障碍者問題にとどまりません。
金銭的、労働的支援を問わず、以下のように現在進行形の問題が多数です。
「どこまでを生活保護者と規定し国で支えるのか」
「日本は財政赤字なのにどこまで他国に資金援助をするのか」
「どこまでの難民を受け入れる義務があるのか」
大人でも解決できてない問題ばっかりです。
残念ながら大人も子供は面倒なものにはできるだけ係わりたくないと思っている、これが真実だと僕は思ってます。
でも現実世界でお互いが助け合っているのは、ある種の共同体意識があるからです。
どこまでの支援・負担を許容するのかというのは、どこまでを共同体と規定し、お互い支えあっていくのかという意識によります。
上記の例のように支援・負担の問題は、大人でも解決できない難しい問題ばかりで、それを(ある意味で)純粋な子供に説明するのは、かなり難しいです。
事実、この漫画では子供を説得しきれていません。というか担任の先生も硝子を共同体の仲間として認めていません。
将也はまさしく共同体にふさわしくないものを排除する勘違いな正義の味方として描かれます。
将也は高校生になることでその考えを改めますが、一方で同級生である直花は高校生になっても考えを変えない存在として残っています。
直花の存在は僕が書きたいもう一つのテーマなのですが、長くなったのでまた別の機会に書くこととします。
◆その他
この漫画は少年誌連載というところもあって、コミカルな場面も多かったですね。個人的にはもう少し重い方が好きですが、映画化にあたっては尺が長すぎるので、コミカルな部分が削れて、僕が望む塩梅になるのではないのかと期待しております。